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【アラベスク】  第15章 薄氷の鏡



第4節 招き猫 [2]




「へぇ やっぱツバサもそういうところは恋するオトメなんだねぇ」
「だ・か・ら、ガキのクセにそういう生意気言うんじゃないって言ってるでしょうっ」
 言うなりツバサは立ち上がる。ここは唐草ハウスのダイニング。他の子供たちは食べ終わり、別の部屋へと散っていった。
「そういう生意気言うヤツのケーキは取り上げ」
「あ、待てよ。まだ残ってる」
「そうやっていつまでたっても食べ終わらなかったら後片付けできないでしょう。今日の当番が困るじゃない。あと十数えて食べ終わらなかったら取り上げ」
「マジかよっ」
「ほらいくよ。いーち、にーい」
 ぶつくさと文句を言いながらも、ツバサのカウントに手と口を(せわ)しく動かし始める少年少女。
 そんな二人を眺めながら、ツバサは小さくため息をつく。
 手作りチョコか。やっぱりコウも、たまにはそんなの貰いたいって思ってんのかなぁ。でもコウだって私の料理下手は知ってるし、今さら期待もしてないと思うんだけどな。
 そこでふと、可愛らしい包みを思い出す。毎年バレンタインにはいくつかのチョコレートを貰って帰ってきた兄。それがいつの頃からか、たった一つだけを大事そうに持って帰ってくるようになった。
 こっそり部屋を覗いてみると、机に置かれた綺麗な箱からチョコレートを取り出し、丁寧に、愛おしむように口に入れ、ゆっくりと噛みしめる。
 あまり家では笑顔など見せない兄の、めずらしく暖かな微笑みだった。
「ニヤニヤ笑いながら食べて、気持ち悪い」
 一度嫌味のように言ってやったが、兄の魁流(かいる)は恥かしげもなく答えた。
「だって、好きな子からもらったチョコレートなんだから、嬉しいにきまってるだろう。それにこれ、手作りなんだよ。美味しいよ。一つあげようか?」
 貰ったチョコレートを他人にあげるなんてサイテー、などと怒鳴った覚えがある。
 きっと悔しかったのだ。嬉しいという気持ちを堂々と口にする兄の素直さが嫉ましかったのかもしれない。
 今、ツバサには好きな人がいる。隠しもしないし、校内でも堂々と認めてもいる。とても大切で、絶対に失いたくないと思っている。
 好きな人のためにチョコレート売り場を渡り歩くツバサの姿を見たら、果たして兄はどんな顔をするだろうか?
 きっと目を丸くするだろうな。
 思わず笑みを零しそうになり、ケーキを頬張って喉に詰まらせ咳き込む少年の姿に、慌てて現実を取り戻した。





 鬱陶しそうに見下ろす視線を、美鶴は気丈に見上げる。
「お前はコアラか?」
「こんな可愛らしいコアラがこの世に存在すると思います?」
「コアラの方がずっと愛らしい」
 言いながら霞流慎二はぐいっと腕を引っ張る。それを美鶴がひっぱり返す。
「離せ」
「嫌です。一緒に店に入れてくれるまで離しません」
「お前のようなガキが入る店じゃない。そもそも未成年の立ち入りは違法だ」
「でもこの間は入れました。ユンミさんが入れてくれましたよ」
「だったら今日もユンミに頼め」
「じゃあ、ユンミさんを呼んできてください」
「どこに居るのか知らん」
「携帯で連絡を取ればいいでしょ?」
「なんで俺が? 面倒だ」
「だったら頼みようがありません」
「なら諦めろ」
「嫌です」
 先ほどから同じことの繰り返し。
 怪しげな店へと続く扉の前。美鶴は姿を現した霞流の右腕に突然飛びついた。そうしてそのまま離さない。
「入れてくれるまで離しませんからね」
 両手で必死にしがみつく女子高校生を、そう簡単に引き剥がす事はできない。
「お前、どういうつもりだ?」
「決めたんです。これからはもう迷わないって」
「何を?」
「霞流さんをハートのエースに変えるまでは、私は絶対に諦めません」
「一生無理だ」
「じゃあ一生頑張ります」
「冗談だろう?」
 チッ ハートのエースどころか、コイツのハートに火を付けちまったのか?
 慎二は心内で舌を打つ。
 出直してくるなどと言ってしおらしく項垂れていたからしばらくは大人しいだろうと思っていたが、この展開は予想外だな。
 左手を額に添える。
 まったく、こんなじゃじゃ馬だとは思わなかった。
 そんな二人の横を、一組のカップルが横切っていく。
「あらぁ、慎ちゃんの新しい彼女? 大変ねぇ」
 大して同情もしていなさそうな言葉を投げかけ、扉の向こうへと消えていく。
「離せ、迷惑だ」
 苛立ちを込めて睨む。
「お前の顔など見たくもない」
「いいえ、離しません」
 美鶴も負けじと睨み返す。
「だって離したらもっと霞流さんに迷惑を掛けちゃうかもしれませんから」
「何?」
「後頭部に怪我でもしたら大変でしょう?」
 精一杯笑ってみせる。
「私が消極的な行動しか取れなくって、そのせいで霞流さんに迷惑を掛けてしまって、本当に申し訳ないと思っているんですよぉ。だからぁ、これからはもっと自分の気持ちをガンガン表に出していこうと思っているんです。でないと、もっと迷惑を掛けちゃうかもしれない」
 なにが、もっと迷惑を掛けちゃうかもしれない、だっ!
 嫌味のような言葉に慎二は眉を潜める。
「あれは遊びだ」
「もう、遊ばせませんよ」
 自信なんて全然無いけど。不安である事に違いはないけど。
 美鶴は気丈に見上げながら思う。
 でも、霞流さんの事が好きだから。すっごく好きなんだという気持ちに気づいてしまったから。だから、せめて霞流さんにアタックできる機会があるうちは、精一杯頑張ろう。ひょっとしたら、また澤村の時のように無残な最期を迎える事になるのかもしれないけれど。
 怖い。
 どのような扱いを受け、自分の恋心がどうなってしまうのか。そんな恐怖も感じながら、だがそれ以上の恐怖を思い出す。
 霞流さんが死んじゃわなくって、本当に良かった。
 嘘だったとはいえ、思い出すだけでゾッとする。美鶴は心底信じていた。霞流が死んでしまったらどうしようと、本気で恐れた。
 霞流さんがこの世からいなくなる。

「母さんが死んだ寂しさを紛らわしたいだけなんだよ」

 瑠駆真は、小童谷の言動を冷たく詰った。美鶴は、そんな瑠駆真を冷たい人間だとは思わなかった。むしろもっともだとすら思った。
 だが、本当に好きな人がこの世から消えてしまったら?
 小童谷は、瑠駆真のお母さんが亡くなった時、どんな気持ちだったんだろう? やっぱり怖かったのだろうか? 私がパニックになったように、やっぱり混乱したのだろうか?







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